『ガールズ・ブルー』あさのあつこ著 文芸春秋刊


『バッテリー』が有名な児童文学作家、もっとも児童文学と切って捨てられない凄みがある。『ガールズ・ブルー』もそんな凄みを感じた作品、南木佳士の作品が川沿いを上流に向かいつつ、川の流れにいらないものを捨てていくものだとすれば、この『ガールズ・ブルー』は川の流れに必要なもの一切合財抱えて流れに逆らって泳いでいる感じ、お先は真っ暗、それでも自分の人生を生きてやる、そんな気合に満ちた作品、けれども何者かに操作されている、そして抗えない運命の影を感じてひどく恐れている作品。


「捕まりたくない。演じたくない。あたしは、主役を張りたいのだ。演出も脚本も主演も、全部あたしがやる。あたしに役を与えて、演じろと命ずるものを、片っ端から蹴っ飛ばしたい。他人の物語の中で生きていくことだけはしたくない。だから油断しない」


地元で「ダストボックス」とまで言われるバカ高校に通う理穂は思う、すぐ型に嵌めようとする社会を嫌悪して、型に嵌まらないように生きようとする、それでも言い知れぬ力を感じて、気がつけば型に嵌まろうとしている自分がいる、だから油断できない。


「型に嵌まりたくない」安易でチープだが、誰もが思うことでとりあえず高校ぐらいの頃はもがいてみる、型に嵌まらないように必死にもがく。それでもやがてその方が楽なことに気がついて、自分にあった型に入り、その型ぴったりの自分を演じる、型に嵌まらないように生きるには油断ができない、理穂の言葉はいいえて妙だ。そして高校生のの気合を感じる、確かに自分にもそういうときがあった気がする、はっとさせられる、南木作品なんか読んで厭世観に浸っている場合ではない。


片っ端から「蹴っ飛ばして」生きてやりたい、そういう元気が出た。精一杯真剣に「今」を生きている高校生達の物語、やっぱ児童書の範疇ではないわ、この作家。