『世に棲む日々3・4』司馬遼太郎著 文芸春秋刊


高杉晋作という人間は、正に回天というにふさわしい行動を続ける。開明的思想に身をやつしつつ、防長国として河井継之助が考えたような世界に通じる国家として長州藩を発展させようとしながら、懐古趣味だといえばそうなるほど主家である毛利家への忠誠心は厚かった、余人希に見る行動力を示しながらどうしても親には頭が上がらなかった。


見方を変えてみればボンボンの子どもが新進気鋭の思想家に半ばたぶらかされるようにして、日々の生活を気にしなくてもよいのをいいことに、革命だ改革だと、そう唱えている、そういう見方もできる。


しかしこの28年程で生涯を終えた人間には悪魔のような行動力が宿り、正に薄命ということが憚られるほど、中身の濃い人生を送った。革命に成功し、俗論派を倒しても改革の旗頭になることなくそれを掘り出す、自由人として生粋の改革人として生きようとしつつも、親に頭が上がらず、その行動力の源は忠誠心にある、という破綻はある種この時代に生きる人間として必要だったのかもしれない。


松陰は言う、人生には短くとも春夏秋冬がある―


高杉は燃ゆるような夏を過ごした、嵐のような秋はまたたくまに過ぎ去り、静かな安息の冬は短い。正に天の配剤、高杉晋作吉田松陰、一個の明治維新への装置としてそれぞれが存在したとしか、自分は思えないのである。