『香乱記』読了―


「天に求めず、天を責めず、天に甘えず―」漢楚争覇時代という劉邦項羽という2人の奸雄が争う時代を己の生き方を持って他人に阿らず生きようとした「田横」の生き方は正にこの言に相応しいものであった。天下一の人相見たる許負に三兄弟すべてが王となると予言されどれだけの月日が流れたか、2人の兄は死に、次兄たる田栄の子である田広を斉王とし、その元で田横は宰相となった。扶蘇の遺児である蘭を妻として娶り、戦乱の世にあって信義を守り、他国に攻め入ることなく理想の王国を作ろうとする姿は、正に項羽と劉邦に続く隠れた第三の英雄であった。


しかしその平和を歴史の流れは押し流す、劉邦は本拠地漢中を出て項羽との戦に乗り出す。天才韓信の兵略により諸侯の領土は次々と陥落し、斉もその脅威に晒される。一端劉邦との間で斉は和睦を交わすが、斉との和睦を為した使者に手柄を奪われるのを恐れた韓信は独断で斉に侵攻する。たちまち田横の作った理想の国は瓦解することとなり、斉王田広も敵軍に乗り入れ死ぬ。


田横は悲嘆に暮れ自らの生き方を問い直す。


悪を憎み正義によって国を守ろうとした自分が、正義に拘ったが故に多くの人々を死に晒した、これは悪ではないのか―


対する劉邦は信義を守らず悪を越え大悪を為している、それでも天は一向に彼を滅ぼすことはない、過ぎたる悪は大なる正義となるのか―


田横の懊悩に家臣は正義たるは、また正しき王たるは後の世にて定まることもありますと告げられ、悲しみの中を立ち上がり自ら斉の王となる、悲劇の中で予言は果たされたのである。しかし田横に後はなく、彼は逃亡を余儀なくされ、東海の島に身を隠す。その頃項羽は大敗し、自ら首をはね、ここに劉邦を初代皇帝とする漢帝国が誕生する。


ただ漢は以前定まらず、猜疑心の剥き出しにし始めた劉邦韓信を始めとした股肱の臣下達を次々と死に追いやっていく―一方島に逃げた田横の元には劉邦より使者が訪れ、厚遇するので都に来いと告げられる。何度か断るが、これを受けることを田横は決断する。共に逃げ島に住んでいる数百人を助けるが為にである、既に田横の子を身ごもっていた蘭にはもし自分が死ねば、遥か東にあるという三神山に逃げるように告げる。


田横は2人の臣下を選んで都へ向かう―しかし田横は自らの首をはね、首のみで劉邦相見えることとする。自らは理想の為政者としての道を体現しようとした、ここで劉邦に屈し、彼を皇帝として認めその元で王となればそれは自らの否定に他ならない。自らの首をかき切って死んだ田横の首は使者と2人の臣下の手で急ぎ落葉にある劉邦の元に届けられた。


「田横が朝謁つかまつります」


田横の首が劉邦の元に差し出される、劉邦ははらはらと涙を流し、臣下2人の官位を与え、また田横を王の礼を持って葬る。その墓の下で、臣下2人は田横の雄略を語り合い、田横の死出の旅路の案内をと自害する。劉邦は驚き、今度は食客5百人を島から呼び出すが、この人々も田横の死を知ると墓の前で次々と自害する。


「本当の士を得ていたのは田横であった」


天に愛されずとも人に愛された人の凄絶な死であった―


こういう悲劇的な終わりは結構好きだったりします、ここまでスケールの大きい話は日本にはないですが、戦国時代とかだと山中鹿之介とかがそういう感じですよね。最後の首だけで劉邦相見えるシーンなんていうのは映像化してほしいくらいで、映画の『始皇帝暗殺』で暗殺者のケイカ(漢字忘れました)が始皇帝に飛び掛るシーンと同じぐらいすごいシーンではないかなと思います。天に生かされるのではなくて、人に生かされる、どちらが真の英雄でありえるのか、それは『香乱記』を読んで考えてみてください。


4巻ありますが1冊1冊が薄いのでそれ程苦労はないはずです、項羽と劉邦の話について若干詳しい方なら新しい視点が見えて楽しいですし、そうでなくとも生き方を考える上ではひどく良い本だったなと思います。宮城谷先生の本次は何をいきましょうか・・・『子産』とか中途半端に投げ出したから読んでみようか、それとも司馬先生の『項羽と劉邦』か―