『ダイヤモンドダスト』南木佳士著 文芸春秋刊


南木佳士作品に嵌まった気がする、明るい話ではないのになぜだろうか。常に死者に限りなく近い生者が、死者となっていく現場にいた著者は、人生を見る視点に独特の視線を持った。


それは紛れもなく「死」から人生を見ることである。


『冬の水練』で「死こそ全て人々に平等」という考え方があったように、唯一平等である「死」という場所から見る物語の中で描かれる人生は酷く平坦だ。物語は淡々と描かれる、芥川賞受賞作である『ダイヤモンドダスト』を覗く3作品の短編は著者体験したタイで経験したカンボジア難民救援医療活動と前後して描かれる、時に英雄的に見える医療活動ですら淡々と、時に自嘲気味に語る。そこに描かれるのは何れも医療従事者だが、極力人との深い交わりを絶ち、自らの心の負担を減らすおおよそ良い医療従事者とは言い難い姿だ。何かを変えようと海外に向かっても、結局何も変えられなかった、より多くの死を見て、日本に帰っても同じように死を見る。


起伏がないわけではない。1作目である『冬への順応』では淡い初恋が描かれる、ただ再会したその彼女と再会した時彼女は既に治ることのない末期ガンの患者だ。医師を目指した予備校時代、お互いに両思いであった頃、2人は故郷で山に小さな診療所を開く夢を共有する。しかし彼女はそのまま私立へ、彼は名もない地方の新設医学部へ、彼女の思いは離れていく、そして再会した時彼女は管を通じ機械に繋がれ瀕死である。


主人公は医師になりカンボジアでより多くの死を見つめる、戻ってきた彼の居場所は既になく、暇をもてあましていたところで夢に見ていた山の診療所に派遣される、たった1人ではあるが。初恋の相手は幸福とはいえない人生を送りまだ生きたいとすすり泣く彼女が末期ガンにより床に伏している、一方2人で夢見ていた山の診療所では「生き過ぎちまった」と死ぬことができない老人達の溜め息が聞こえる。死とは何なのか、数多の死を見ても答えすら出ない糸口すらない、ただ何か仕方のないものだと、最期には必ず訪れるものだと、感覚でそれを実感していく。


初恋の彼女が死んだ時、何のドラマティックな展開もなく電話で連絡を受ける。彼は静かに食卓を続ける、死とは特別なものではなく、誰にでも訪れるもの、それが分かり過ぎてしまった彼は、彼女が死んだことに悲しみつつも行動を起こせないでいるのかもしれない。仕方なく食卓で1つのおかずを、しつこく何回も食べている描写が印象的である。ここで紹介したのは1作品だが、他の3作品もそれぞれに深い底流がある。


肝心の芥川賞作品はどうした、といわれるかもしれないが勘弁、個人的には『冬の順応』が一番印象的だったのでそれで勘弁してくだされ。


重いのは間違いないけど、考えさせられる部分が多く、読みやすいのがいい。枚数も薄いので、興味があればぜひ読んでみるとよいと思う次第。