『峠(下)』司馬遼太郎著 新潮社刊


「いますぐ棺の支度をせよ。焼くための薪を積みあげよ」


河井継之助は腐りかけた足と衰える体力に死を感じ、会津への難所である八十里越でこう言い放つ、彼は最後まで怜悧に物事を見ようとした、自分の死すらである。


官軍は北越に迫った、継之助を藩執政とし一応のまとまりを見せる長岡藩も、時勢を汲み取り官軍についていこうとする動きもあった。継之助もそちらの方が安泰であるのはわかっている、しかし彼は徳川十七将であり譜代である牧野長岡藩の執政である、時勢よりも自分の置かれた立場を重んじた。


継之助は第三の道をとる「和平中立」である、しかしその願いは叶わずついに世に言う激戦「北越戦争」が始まる。敗戦は必死である、しかしその悲壮感に酔うことはない、激戦の末に長岡藩の容易ならざるを知った山県狂介(山県有朋)が自ら官軍の指揮を執る。善戦しつつも長岡城を持たせることはできず継之助は栃尾に引く、しかしまだあきらめない。


再度反攻する、長岡城を望む要衝である今町を攻め取る。ここからは正攻では勝てない、継之助は「八丁沖」という長岡城の天然の要害となっている沼を抜いて城を急襲することを思い立つ、果たして奇襲はなり長岡城は奪回される、歓呼の声が継之助を囲む、しかしあまりにも時間は短い。再び激戦となった長岡城攻防で彼は足を負傷する、迫り来る官軍の増援、そして味方の藩の寝返り、彼は死期を感じつつ長岡を落ち延び会津を頼る、死の準備をする、自らの屍を燃やす火が燃え盛る、その瞳に何が映ったか、誰も知る余地はない―


負けると知りながら戦う、ということが人間にはある。現代を生きる人間にはなかなかわかり辛い、負けることは死を意味し、負けることは汚名である、負けて勝つ、ということがあるにしても、それを受け入れるのには尋常なことではない。現代の人間に近い科学的な視野を持ちながら、武士としての厳しいまでの自己規律によりこの戦を戦う河井継之助、彼を時勢を知りながら主家に足を縛られ続けた二流政治家と断ずることもできよう、ただ二流であったが故の悲哀や美しさ、ある意味で官軍の将兵が考えることがない視点で日本の未来を考えた、その姿には激しく魅力を覚えざるをえない。


多くのことを知る、継之助は学問をしていない、博学であったわけでもなくかといって強力であったわけでもない、彼にあったのは「知」でもなく「勇」でもなく、「胆力」であった。時勢に流されるでも逆らうでもなく、動かぬ胆力をもってして、彼は自己を律し、またそうであるが故に官軍に真意を理解されず、単純に賊軍とされた。彼の勤王というものへの不信感、そしてその自らが不信を抱く者が描く未来に対して、大きな楔を打ち込もうと彼はしていたのではなかろうか、彼の瞳にうつる炎は、それから100年後の「大日本帝国の滅亡」を見つめていたのではなかろうか。


さあて本格的に夏休み、しかし寮の人々が海にいったり、部の人々が隅田川花火にいったりしてる間、自分はゼミで勉強ですか、おのれなんたる不条理!!と叫ぶよりも楽しめ、誰かがこういっています「一番無駄な日は溜め息をついて過ごした日、そうしているうちにもあなたは死へと向かっている」さあ楽しめ、やれ楽しめ、楽しめ、悩むより行動悩むより走れ!!