垂坂山なる山について


暇なので地図を見る、どこかの誰かさんが暇な時に地図を見ると結構な暇つぶしになると行っていたが、それは同意する。自分はもっぱら歴史的な史跡について見る、神社とか城跡とか、昔の人々の営みが見えるところは、何か異質な部分と繋がっているような気がして楽しい、昔のこの城でどんな戦いがあったのか、そんなことを思い昔に思いを馳せるのは結構面白い。


して、垂坂山である、「たるさかやま」でいいと思う。


元々地図を見たのは、11月あたりに密かに中国の西域に旅行にいこうと企画していたからであって世界地図が見たかったのである、しかしご生憎ヤフーでは世界地図は見れなかった。暇なのでそのまま地図をしようし、自分の実家の近辺に飛んでみることにした。


三重県の最北端にある桑名市は出身である私であるが、厳密には旧長島町出身であることを記載しておく、これは自分にとって重要なアイデンティティである。桑名市内を見ながら、もうすぐ石取祭の季節だな、と思い至る。有名ではないが、いろいろな山車が出て、金や太鼓を叩きまくる賑やかなお祭りである。あまりにも騒ぎすぎて風紀を乱すとして禁止になったことすらある、自分としては大好きである、山車のない地域に生まれたことを死ぬ気で後悔したこともある。来年からは休みとかなさそうな生活なので、しっかり堪能しておきたい次第。


地図を北勢線というローカル線にそって北へとずらしていく、東員の競技場を見て高校の頃、ここで練習して帰り道に迷い、あげくローカル線のせいで駅で1時間近く待ちぼうけくったことを思い出す。確か人の家に迷い込んで犬にほえられたりもした、高2の夏の思い出である。もう一度海の方へと戻す―


母校のマークが見える、四日市高校の名を冠しておきながら市街地からは3駅も離れているよくわからない学校である。なぜこの地域になったかといえば、北勢の二大都市、という程大きくないが、比較的大きな町である、桑名と四日市の町が綱引きをして妥協点としてその中間に学校を作ったらしい。従って昔は富田中学校といったらしく、甲子園優勝もしたことがある伝統校である、今はへっぽこであるが。広いグラウンドの駅に近い部分に目をやる、馬車馬のように走らされた日々が思い起こされてくる、かくいう私は陸上部キャプテンである、誰も信用しない。たるんだ腹に絶え間ない呪詛の言葉を吐く、大学1年生の頃、手を打たなかった自分がわるいのは言うまでもない、後悔先に立たず、光陰矢のごとし―


やや南へ、四日市の市街地に入るところ、垂坂山がある。どうやら夜景がきれいに見えるデートスポットらしい、しかし疑問に思うのはコンビナートの夜景が綺麗かということだ、高校から帰る電車の中から見えたコンビナートの夜景は、どう見たって不気味な巨大要塞である、たまに煙突から火をふく、どう見たって健康によさそうではないのだ。そんな紹介の仕方がされているのはいいとして、「垂坂山」である。この名前で自分があっと思ったのは、昔四日市高校の歴史を書いた本で見たことがある「同盟休校」という事件について思い出したからだ。


時代は大正の頃で、初代の田村校長から二代の校長に校長が変わった頃の話であったと思う、新しい校長は校風の一新を唱えて初代校長の色を一掃しようとする。それに反発した最上級生が反抗し、下級生を連れて「同盟休校」を宣言、紡績工場の廃屋跡に立て篭もる。教師が説得にいくが尚を収まらず、夜になって彼らは移動を開始していく、その時一夜を明かしたのが「垂坂山」である。翌日になって再度説得の使者が出され和解するに至るのだが、このわずか1日の反乱にちょっとした興味を覚えたのである。当時生徒会長をしていて、文化祭をなんとか変化させようとしていた自分を重ねて、ちょっと酔ってみたり、憧れたりしていたのかもしれない、山の拠っていた彼らはどんなことを考えていたのか、その山から見えた当時の風景はどんなだったのか、少しでも自分たちの抱いている不満とかと重なる部分があったのか、遠くない昔のちょっとした事件に思いを馳せる。


何のことではない、世迷いごとである。