『落日燃ゆ』城山三郎著


もう夏も終わりですね、バイト、帰省、サークル、レポート・・・まったりと過ごした夏に対して少し後悔か。いっつも初動が遅く夏をだらだら過ごしてしまう、大学3年生の夏だってのにもう少し有意義に過ごせなかったものか。まあ、始めたバイトはそれなりに勉強になったが、1年インターン、2年予備校と駆け抜けた感もあるので少し息切れがしたのかもしれない。後少しで社会に出るとはいえ、まあぼちぼちやるしかない、楽しいと思ったこと、やりたいと思ったことに積極的に飛び込んでいくべきだと改めて思う。


というわけで今日も本を読む。城山三郎著・新潮文庫『落日燃ゆ』である、戦前の外交官、首相、外相、そしてA級戦犯広田弘毅を描いた作品である。昨日突然買ったのだが、元々は同じ城山三郎浜口雄幸を描いた『男の本懐』を買おうとしていた。しかしその『男の本懐』に長編経済小説と書いてあったのが妙に気になって、『落日燃ゆ』に変えた。経済という言葉に少しアレルギーを感じる、1年の時のマクロ経済学の後遺症だ。


元々戦前、戦中に興味がある自分としては、こういう本は中々楽しんで読める。何よりA級戦犯東条英機を知っていても広田弘毅を知っている人は少ない。松井石根木村兵太郎なんかはもっと知られてないだろう。


広田という人物に対する知識は軍部大臣現役武官制を復活させた人物であるという、高校日本史レベルの知識と、東京裁判で「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)』と宣告された時、海軍の嶋田繁太郎と間違いでは、と驚かれたぐらいしか知識にない。それぐらい人物に対する知識は少ない中で本を読んでいく、意外な発見があるので読書はやめられない。


読んでいく中で広田という人物は、達観してしまった人物であると感じた。物事に心を動かされることもなく、淡々と自分の仕事をこなす、自分のやるべきことを成していく、けっして引かない代わりに、自分の領分から出ない。庶民の出であるが故に、国と自らを一体化し自らの身を粉にしてまで働く、という姿勢は最初は見られるものの、やがて狂奔する国家を見る姿勢は冷めたものに変わってしまっている。広田という人物にもう少し、向こう見ずな情熱があれば、と読んでいる最中に思った。軍部大臣現役武官制についても、それがどのように利用されるのか、考えるべきだったと思う。しかしそれが一人の人間の限界かもしれない、事実として、広田は陸軍に害相と呼ばれるまで和平工作に奔走した。戦争に対して批判的だったのは事実だろう。


その広田の国家を見る冷ややかさの象徴に、処刑台に立つ前、先に処刑台に立った東条、松井、土肥原、武藤が万歳を唱えているのを聞いて「今、マンザイをやっていたんでしょう」と教誨師の花山に言ったことである。戦争を止めようと和平工作に奔走し、その度に陸軍に邪魔をされその工作は瓦解し、挙句の果てにその邪魔をした人物たちと一緒に絞首刑にされる。正に漫才以外の何者でもないではないか、最後にそのような痛烈な皮肉を述べた広田は板垣、木村とともに処刑台に上げられる、二人が万歳を唱える中、彼は黙って死を受け入れた。妻は既に自決しておらず、子供たちも育ち、何の悔いもなかったのかもしれない。それを表すかのように、彼には辞世の句も遺書もなかった。


彼は文官で唯一のA級戦犯であった、これが何を意味するのか、近衛は自殺し、松岡は病死した後となっては彼を見せしめにするしかなかったのかもしれない。


と長々となってしまいましたが中々良い小説でした、城山さんと言えば『官僚たちの夏』ぐらいしか知らないのですが、記録小説のような淡々さの中に、凄みを感じる一冊でした。