『海辺のカフカ』で目にウロコ


今日は新歓お休みです、ひょっとしたら午後からサプライズ訪問でもしようかなと思うんですが、予備校があるので無理か、全然脚本の書き直しができません。やっぱ部屋周りは無視するわけにはいきませんし、大学の新歓、7月に試験を控えた司法書士にも遅れはとれません、何か新しい趣味を見つける暇もないなあと嘆く次第。

海辺のカフカ』まだ全部読み終わっていないんですが、なんだか読んでると思わず自分の感じている不満とか、不安とかそういうものを見透かされている感がして身震いして読んでる感があります、これだから本はやめられない。

海辺のカフカ』でナカタさんというお爺さんを助けるのにホシノさんという若者がナカタさんの旅に同行します。とらえどころのない、だけれども人をほっとさせる雰囲気を持つナカタさんにホシノさんは心を引かれ、会社を休んでまでよく目的のわからない旅についていくわけですが、その中でホシノさんがナカタさんといると「自分は何であるか?」と考えるのがどうでもよくなってくる、というような発言をします。ここで少しドキッとします、自分は何であるか何ができるのか、は自分も少し落ち込みやすい命題でして考えるとひどくやるせない感じにさせられます。

 自分が何であるかを知ろうとする、というのは自分としては「他の人と比べて自分はどうなのか」に結局帰結する感じがあると思います。自分のことはよくわかるといいながらも、自分は誰々と比べてこうだから良い、とか結局誰かとの距離を測って自分を何であるを知ろうとするのが人なんだろうなあ、と思います、寂しいことですが。

 そこでこのナカタさん不思議な雰囲気というのは誰もが望むものであるような気がしてきます、自分が何であるかを悩み、自分に試行錯誤を加えず、あるがままでそこに存在することができる。まあ、宗教も同じようなものでしょう、自分が何であるかという部分を「神様の子」という位置付けに預けて、安息を得る。宗教をあまり解さなくなった今の日本の人達は、自分が何であるかに悩むが故に苦しかったり虚しかったりすることが多いのかな、とも思います。

 なんだか長々と書いてしまいました、というわけで『海辺のカフカ』には驚かされております、『終戦のローレライ』もやっと最終巻、『半島を出よ』はまだまだこれからですが、後本当に脚本がやばいやばいやばい!!!